永田明史とインド料理・・4

のりだ~

2014年10月10日 18:32

 デリーで働き始めてから頭角を現した永田さんは、六本木店(1965~1982年まで営業)でも軽井沢店(1968年~(1975年に2店目をオープン)1990年まで営業)でも売り上げ記録を次々と塗り替えた。
 「修行は何年学んだかより、何を学んだかが重要だ」と永田さんは言う。
 「いつも店長や社長が何を考えているのかを探っていた。高橋さんからはテクニックはもとよりコックとしての姿勢。普通、コックさんが『美術館へ行こう。絵を見たりするのは大事だよ』なんて言わないじゃん。高橋さんはそういう人だった。
 先代の社長からは経営者としての気持ちのありようを学んだ。素晴らしい感性を持った人だった。」
 多くを学んだ「デリー」を計画通り3年で卒業し、「マハラオ」へ移った。
 「浜松でやるときにはリーズナブルなセットメニューを用意して、若い子達がちょっとお金を持っていればインドのカレーを食べられるって形にしたかった。『マハラオ』にはミックスグリルとかセットものがあったのがよかった」
 インド人から直接料理を学べる環境も、永田さんが求めていたものだった。
 「インド人は料理する時は目分量でしょ。だから朝早くから入って、スパイスを全部量って置いておく。一緒にやっていたチェディーなんかそうだったけど、パッパパッパとスパイスを鍋に放り込んでいって、『はい。できた!』って言うわけ。そしたら急いで残ったスパイスの重さを量るじゃん。そうすると、どの料理に何のスパイスを何グラム使ったかがわかる。それでレシピの計量と原価計算をしてた。タンドールの作り方もあそこで覚えたわけよ。インド人コックがひび割れを修理する時なんかは、冷めるのを待たなきゃいけないから一晩かかる。『誰か手伝ってくれる人いないか?』って言われたときにみんな嫌がるわけ。俺なんか真っ先に『ぜひやらしてください!』って言ったもの。嫌な仕事も丁稚奉公だと思えばできるじゃん。全部自分の身になることでしょ。でもそういう気持ちが日本人には少なかったね。あ、俺、この世界なら勝てるなと思った」

続く


★インドらしい風景