永田明史とインド料理・・4

 デリーで働き始めてから頭角を現した永田さんは、六本木店(1965~1982年まで営業)でも軽井沢店(1968年~(1975年に2店目をオープン)1990年まで営業)でも売り上げ記録を次々と塗り替えた。
 「修行は何年学んだかより、何を学んだかが重要だ」と永田さんは言う。
 「いつも店長や社長が何を考えているのかを探っていた。高橋さんからはテクニックはもとよりコックとしての姿勢。普通、コックさんが『美術館へ行こう。絵を見たりするのは大事だよ』なんて言わないじゃん。高橋さんはそういう人だった。
 先代の社長からは経営者としての気持ちのありようを学んだ。素晴らしい感性を持った人だった。」
 多くを学んだ「デリー」を計画通り3年で卒業し、「マハラオ」へ移った。
 「浜松でやるときにはリーズナブルなセットメニューを用意して、若い子達がちょっとお金を持っていればインドのカレーを食べられるって形にしたかった。『マハラオ』にはミックスグリルとかセットものがあったのがよかった」
 インド人から直接料理を学べる環境も、永田さんが求めていたものだった。
 「インド人は料理する時は目分量でしょ。だから朝早くから入って、スパイスを全部量って置いておく。一緒にやっていたチェディーなんかそうだったけど、パッパパッパとスパイスを鍋に放り込んでいって、『はい。できた!』って言うわけ。そしたら急いで残ったスパイスの重さを量るじゃん。そうすると、どの料理に何のスパイスを何グラム使ったかがわかる。それでレシピの計量と原価計算をしてた。タンドールの作り方もあそこで覚えたわけよ。インド人コックがひび割れを修理する時なんかは、冷めるのを待たなきゃいけないから一晩かかる。『誰か手伝ってくれる人いないか?』って言われたときにみんな嫌がるわけ。俺なんか真っ先に『ぜひやらしてください!』って言ったもの。嫌な仕事も丁稚奉公だと思えばできるじゃん。全部自分の身になることでしょ。でもそういう気持ちが日本人には少なかったね。あ、俺、この世界なら勝てるなと思った」

続く


★インドらしい風景
永田明史とインド料理・・4

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この記事へのコメント
毎日拝見しています。活発な更新ありがとうございます。
30年前の浜松北高生の頃、街に慣れたクラスの友人に誘われて以来、帰り道にたびたび通ったのがボンベイでした。

きょうの記事には輝く言葉がたくさんあって、「永田さん超カッコイイ!」と思ったので、初めてですがコメントさせていただきました。

いまは県外なのでお店にはなかなか行かれないし、おとといのテレビも観られませんでしたけれど、永田さんの人生を伺うのが楽しみです。そして、バブル期に都内に続々とできたインド料理店を食べ歩いても「ボンベイ」を超える店がなかなかなかった理由も、これから続々と明らかになっていくんだろうと楽しみにしています。
Posted by tkamada at 2014年10月10日 19:33
tkamadaさんコメントありがとうございます。オーナーの永田さんはネットはほとんどやらないので、私のほうから伝えておきますね。
 自分の知り合いも同じように高校生の頃に行ったことがあると言ってました。無謀にも超辛いのを食べて唇が腫れたそうです(笑
 一応勢いで一日おきの更新になっていますが、当時のエピソードなどを聞いたりしたいので、間隔があくかもしれませんが、頑張ります。。
Posted by のりだ~のりだ~ at 2014年10月10日 20:58
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